授業が退屈すぎて、漫画を描いていた小学生の私。
「またか!」と怒られ、ゲンコツをくらっても、やめられませんでした。
なぜなら——退屈のほうが、もっともっと、苦しかったから。
皆さんは、ギフテッドの子どもは学校生活になじみにくい、という話を聞いたことがおありでしょうか。
学習能力が高くて意欲もありそうなのに、どうして?と不思議に思われるかもしれません。
理由はいくつかありますが、一番ありがちなのは、まわりのクラスメイトたちと学習の速度や興味の幅が違うために、授業中に退屈してしまうパターンではないでしょうか。
実は、ギフテッドの子どもたちにとって、「退屈」というのは想像を絶する苦痛だったりするのです。
今回は、私の小学校低学年のころの体験をご紹介しますね。
始業式の日。
私はいつも、ワクワクした気持ちで登校したものでした。
授業がなくて早く帰れるのも特別感があって嬉しかったし、なによりも、新しい教科書をもらうのが楽しみだったのです。
始業式が終わって教室に戻ると、教科書が配られます。
折り目ひとつないピカピカの表紙を開くと、新鮮な紙とインクの匂い。
ランドセルにつめこむと、私は一目散に家に帰って、さっそく読みはじめるのが常でした。
ほとんどの教科書をその日のうちに読んでしまうので、新学期の授業が始まるときには、学習内容がほぼ頭に入っている状態でした。
これ、同じくらいのIQを持つ私の弟も同じことをしていたそうなので、ギフテッドの子どもにはありがちなのではないかと思います。
共感していただける当事者の方も多いのではないでしょうか。
さて、そんな状態で授業を受けると、当然のことながら、先生のお話は知っていることばかりになります。
最初はがんばって集中しているのですが、だんだんと退屈が勝ってきて、ほかのことをしたくなります。
耳では先生のお話を聞きながら、手が勝手なことを始めます。
私がよくやっていたのは、イラストを描いたり、パラパラ漫画を描いたりすることでした。
本を読むとか、パズルを解くのも好きでしたが、先生のお話が耳に入らなくなるのは避けたいので、自制していました。
やはり、指されたときに答えられないのはまずい、と思っていましたからね。
先生に見つかると叱られるので、机の天板の下に隠して、コソコソと絵を描いていました。
学校の机というのは、天板の下に、道具箱や教科書、ノートなどを入れるスペースが設けてありましたよね。
あの金属製の受け皿?を下敷きにして絵を描いていました。
すると、ふいに先生のお話が途切れ、一瞬の静寂がおとずれます。
あっ、と気づいたときはすでに遅し。
「こら!手悪さをしない!」
怒鳴り声とともに、先生が私をめがけて突進してきます。
そして、頬に思いっきりの平手打ち。
あるいは、おでこにゲンコツのお見舞いです。
今では考えられませんが、当時の公立小学校では、先生が体罰を使うのはごく普通のことでした。
おそらく私は、クラスの中でもとりわけよく殴られる子どもだったと思います。
殴られたら当然、目の前を星が舞うほど痛いですし、みんなの注目の的になるので恥ずかしい思いもします。
もちろん、そのあとしばらくはお行儀よく授業に集中します。
でも、また耐えられなくなって、やってしまうのですね。
殴られることがわかっていても、「手悪さ」がやめられないのです。
つまり、私にとっては、殴られることよりも退屈することの方が耐えがたかったということです。
ゲンコツよりもタイクツのほうが、ずっと辛かったのですね。
知的に活発なギフテッドの子どもにとっては、「退屈」がこれほどの苦痛になりうるのです。
このことだけを見ても、やはりギフテッドの子どもというのは、学校という環境の中では特別な支援が必要な存在ではないでしょうか。
ちょっと物騒な表現ですが、「退屈は人を殺す」という言葉もあるくらいです。
先生方や保護者の皆さんにはぜひこのことを知っていただき、ギフテッド支援を考えるときに、真っ先に取り組んでいただきたい問題だと考えています。
当時はギフテッドという概念もあまり知られていなかったので、私は先生から見たら、扱いにくい生意気な子どもだったのでしょう。
でも、言い訳でなく、私は先生に好かれたかったし、「手悪さ」をやめたいとも思っていました。
それなのに、やめられず殴られる毎日は、私の自己肯定感を下げ、学校を居心地の悪い場所に変えてゆきました。
入学当時は希望にあふれ、新しい学びに目を輝かせていた私は、だんだんと内向的で口数の少ない少女に変わっていったように思います。
おそらく、同じような体験をしてきた、または現にしている当事者の方は多いのではないでしょうか。
「うちの子も、こういう感じかもしれない」と思われた保護者の方がいらっしゃったら、どうか「授業に集中できない=怠け」と捉えず、その奥にある“知的な飢え”にも目を向けていただけたらと思います。
教育現場でこうした特性への理解が深まり、せっかくの知的な意欲が「問題行動」につながることなく、のびのびと活かされていくように。
教室が“がまんの場”ではなく、“夢中になれる場”になりますように。
ギフテッドの子どもたちに必要な配慮が、どうか当たり前になりますように。
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