思索の軌跡──ゲーレンからフロイト・岸田秀・荒川修作・ローティまで(序章)

すべては存在論的不安から始まった──
幼いころに感じた不安や違和感から、私は否応なく哲学の道に迷いこむことになりました。
「人間」という不可思議な生き物の謎にせまるために、幼いながらも考え、調べ、書物を読みあさってたどり着いた世界観。
ここでは、生まれてから今までの思索の流れの大枠を、何回かに分けて書いていきたいと思います。
枝葉の部分は今でも変革・更新中ではありますが、根幹の部分はずっと変わりません。
結論から書いてしまうと、それは

私たちは、選択している

ということです。

話は飛びますが、皆さんは2016年に起きた津久井やまゆり園事件(相模原障害者施設殺傷事件)を覚えておいででしょう。
神奈川県相模原市の知的障害者施設で、もと職員である植松聖が入所者のかたがたを殺傷した恐るべき事件です。
19人が死亡、26人が負傷し、そのほとんどが意思疎通の困難な重度障害者でした。
犯人の植松聖が、国会議長にあてて「障害者は社会に不要で、抹消すべき」という内容の文書を送りつけ、事前に犯行予告をしていたことも衝撃的でしたね。

この事件をめぐっては、「誰もが心の中で思っていることを代弁した」「重度障害者を抱える家族の大変さを考えると、植松の犯行を非難ばかりもできない」などといった、植松に同調する意見が主にインターネット上に散見され、大きな社会問題になりました。

私は福祉の専門家ではないので、口はばったいことを言える立場ではありませんが、この事件に関しては、人間社会を構成する一員として深く考えさせられました。
特に気になったのは、「進化の過程では弱者は淘汰されるのが当然」といった、ダーウィンの進化論を誤認するような意見が目立ったことです。

人間社会が障害者を含む弱者やマイノリティとどのように共存すべきか?という根源的な問題に揺さぶりをかけた津久井やまゆり園事件(相模原障害者施設殺傷事件)

これから書いていく哲学的思索の最終章で、この問題についての私の考えを述べたいと思っています。

私たちは、選択している

私にとって、この結論にたどり着いたことは、人類の未来への希望に一筋の道が示された決定的な体験でした。
長くなってしまいますが、冗長な哲学論はできるだけ避けて本質的な部分だけ書いていこうと思いますので、しばらくの間おつきあいくださいね。



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